アドラー心理学では、次のように「愛があるから良いコミュニケーションが成立するのではなく、良いコミュニケーションがあるから愛が生まれる」と考えています。
十分愛されているにもかかわらずもっと愛してほしい、親の愛を自分だけに向けないと気がすまないという意味で愛情飢餓のケースが多いのではないか、と思います。そういう子どもたちを抱きしめるとどうなるかといえばますます甘やかすことになってしまいます。
実は問題は愛されているか否かというところにあるのではありません。《中略》愛情だけでは十分ではないということです。
《中略》愛があるからいいコミュニケーションが成立するのではなく、むしろいいコミュニケーションがあるところに愛の感情は生まれる、愛の感情はうまくいっている対人関係ではなく結果である、と考えます。
『アドラー心理学入門』岸見一郎(著)p.56
どんなに愛があっても、相手に対して、その愛が伝わらなかったら、「愛がない」と感じてしまいます。このすれ違いを解消するのがコミュニケーションになるというワケです。
その人なりに考えた声かけや、この人のためにと思って行っている行為が、実は、相手にとってはとてもストレスを感じていて、嫌な行為の場合、良好なコミュニケーションが取れているとは言えません。
本当は、ピアノがやりたいのに、親としては、バイオリンをやらせたくて、バイオリンをやらせていることや、ベビーカーに乗るのが嫌なのに、乗らないと親の機嫌が悪くなるから仕方なく乗るなど、数えきれないほどの例があると思います。
本人にとっては、良かれと思ってしていることだったりするので、「私は良いことをしている」と満足した気持ちになると思いますが、相手はそっぽを向いたり、気に入らない様子だと、それが原因だと紐付かず、「何があったのかしら?」と、相手としては気を使って言いづらい状況になっていきます。
それが、エスカレートし、何をするにも、反抗につながっていくと、指図をしたり、叱る、怒るといった悪循環となっていく可能性もあります。
親子のコミュニケーションがうまく取れていることは、子どもにとっても、親にとっても、最も幸せなことではないかと思います。