教育上、必要な表現を用いるとき、抽象的な言葉については、説明が難しい所ではあります。ですが、30人のクラスのうち、1人も理解できていなかった場合、大人になったら理解ができることと割り切ってしまって、学びを飛ばしてしまうのは、教育上どうなのかと思ったことがあります。
いじめについての問題に直結する、命、心を傷つけるなど、様々な方向から理解ができるように、生徒の心に届くように駆使するのは、学校の勤めではないかと思います。
理解するまでには、社会的な成長が必要であるので、経験の環境を用意することも教育の現場としては、重要な役割ではないかと思います。
家族、家庭では学ぶことができないことも多いので、学べるかどうかは本人次第なので責任が取れないとか、成長に差があるのも、仕方がないとか、そこについての教育部分を、もっと重要視することはしないのかと、いつも思います。
殺害をしてしまった方の意見では、次の通りです。
小学生に、命は大切だなんて言ったって、絶対意味は分からないです。それで実際に人を思いやっている人間が、どれだけいるんでしょうか。一部の真面目なよい子だと、優しい人だとか、自分達が勝手に判断した人間に、人を思いやれとか、そういったものを押し付けて、自分達は自分達の命だけを大切にする、そんなサルばかりじゃないですか
『犯罪心理学を学ぶための精神鑑定事例集』p.48
「命は大切」と本当の意味を理解していれば、いじめが起こることはないと思います。分かっているが、やってしまうということはあるかもしれませんが、多くのいじめは撲滅ができるのではとも思うことがあります。
いじめられている人の気持ちを、想像できることができるか、が大事なような気がします。
真面目な子は良い子と判断することも、個人的には、もう社会に適用していない概念ではないかと思います。
良い子ほど、大人の都合で出来上がった理想像はありません。
人を思いやるということは、どういうことなのか、説明が難しいと思うので、具体的なシーンや、そのときの気持ちなどをクラスで共有するだけでも、学びになるのではないかと思います。
人の解釈に正解はありませんので、どう思うのかを共有するだけで、学びになると思っています。