小さいときには、教科書に載っていることは、全部真実であると信じて疑いませんでしたし、先生が言っていることが全部正しいことである、擦り付けられていたように思います。学校に行って、社会に出てみると「いや、そうじゃないのかもしれない」と思う場面が、多く経験されます。もしかしたら、日本ではとても多いのではないかとも思っています。
フィンランドでの仕事をされていた日本人の方が、次のような経験を教えてくれていましたので、ご紹介します。
ただ少なくとも、私たちが当たり前だと思っている常識すら、あいまいなものだということを、私は身をもって理解しました。
「論理的」「科学的」というと絶対的真実のように思われがちですが、実はかなりあいまいなものなのです。
論理的に話したまえ!とか、科学的根拠は?など、それができれば、すべて正解というような風潮が定着しているのが、日本ではないかと思います。これが悪いということではなく、論理的、科学的だからと言って、それを信じてしまうのは危険であるという話になります。
たとえば、「山に登れば、気温はどう変化するか?」と聞かれた時、あなたはどう答えるでしょうか。
「気温は下がる」と答えるでしょう。私もそう答えます。
しかし、そんな「当たり前」のことでも、知識、経験、価値観が違えば共有することができません。
それを確かめるために、実際に山に登ったのだそうです。
しかし、実際は違いました。「山に登れば、暖かくなるのは当然だろう」と彼らは本気で言っていました。
山と言っても200メートルか300メートル程度でしたが、トナカイぞりに乗ったまま登ってみると、たしかに暖かくなってきます。
実際に気温を測ってみると、マイナス30度からマイナス10度くらいにまで上昇しているのです。
「へえ、そんなこともあるのか」と私が感心していると、「日本では、暖かい空気は上にのぼるって理科で習わないのか」と彼らに笑われました。
確かに習っていることのはずなのに、どうしてこのような事態になってしまったのか?
いろいろなケースを考えられていないからではないか、固定的に知識が頭にあるだけではないかと思います。
これは、先生のせいにしてはいけないと思いますが、保育園、小学校のときから、この考える力、想像力を育てるような教育内容であれば、こんなことにはならないのではないかと思いました。
日本人はクリエイティブであることにプラスして、固定概念にとらわれない創造性があると言われたいなと、悔しい思いになりました。
<参考文献>
『フィンランド流「伝える力」が身につく本』(著者:北川達夫)(p.85)
<関連記事>