『「光の家具」照明』では、著者の照明についての価値観がつづられています。その中で、個人的に参考になった意見があったので、ご紹介します。
著者が、『anan』『クロワッサン』『オリーブ』などの女性誌でインテリア・スタイリストとして働いていたという吉本由美(よしもと ゆみ)さんと対談をしている中で、こんなエピソードがありました。
“全体的に日本の監督は明るくして撮るのね。映像を隅から隅まできちんと見せようという感じがどうしてもあるような気がする。外国映画の方が暗い映画が多い。外国の住まいに部分照明というのがあるから、当然そうなるんでしょうね。(中略)
ベタっとしている。だから日本の映画って、何かベッタリした感じでしょう。影があまりない。新しい映画も、隅から隅までピカッと出ている。p.146”
映画の照明を気にしたことがありませんでした。
日本の映画といってすぐに思い出すものもなく申し訳ないですが、確かに、外国と日本の照明事情が違うのであれば、映像にも影響が出てくるに違いありません。
だいたい撮影のときには、照明さんが撮影用にスタンバイしていて、その方が、俳優さん、女優さんの顔を照らして、夜であろうとも、表情がしっかりと見えるということとは別で、と考えると、
今度注意して見てみたいなと思います。
ベッタリしているという表現は、結局は影がないということから来ていると思いますが、日本人の女性がメイクをするときにも、個人的には、ベッタリしていると思うことがあります。
外国の女性がメイクをすると、ハイライトだけではなく、影をしっかりと作り、綺麗に見える影をメイクするというようなことを見たことがあります。
このメイクの感覚からしても、影というモノを意識しているかどうかという違いが明らかになっているなと思いました。
絵を描くときに、光を表現するには、どうしても影がなければ、光を描くことができないというのは、体験的に分かっていましたが、影があることによって、何がいいの?という話になると思います。それは、次回につづきます。
<参考文献>
『「光の家具」照明』
<関連記事>