イタリアの芸術は、どうしてヌードなのかと。その答えが、『イタリア現代思想への招待 (講談社選書メチエ)』に載っていました。
“起源の神話をめぐるギリシアとローマの違いは、「裸性(ヌディタ)」をめぐる両者の違いにも反映している。ギリシアにおいてヌードは、衣服の下に見出される裸の真理であり、それゆえ「裸性」には美的でかつ倫理的な価値が与えられた。
これにたいしてローマは、裸性そのものにではなく、衣服と肉体との互換性のうちに意味を見いだす。肉体は衣服に包まれることで、その存在本来の官能性をあらわにする。
ヴァールブルクやフロイトを虜にした、ニンフや「グラディーヴァ」の表象がそうであるように、肉体は衣服とともに波打ち、ひるがえる。イタリアのモードの卓越性とエロティシズムの特異性は、この互換性のうちにこそ成立しているのである。” p.176
同じようなヌードの美術作品だと思っていましたが、国によって、考え方が異なっていました。国が違えば、考え方も違うと、それは考えれば、当たり前のことなのですが、こんなふうにハッキリとした違いがあるとは、知りませんでした。
この考えの違いが、ファッションにも繋がっているというのも、興味深い内容です。
古代からの歴史、文化が、今まで引き継がれ、現代でも形を変えて生きているということになります。そう考えると、イタリア製のブランドが多いこと、そして、それが長年に渡り賞賛されていることなども、頷けます。
イタリア語の勉強をしたと思って、イタリアの映画をイタリアのDVDショップで探しても、なかなか見つかりませんでした。やっとのことで見つけたDVDを、イタリア語字幕、イタリア語で見て(もちろん、内容は全然分かりません。今見たら少しは分かるかもしれませんが)、エロティシズムが多くあります。
ただ、その表現は、日本とはまったく異なります。
日本では、濡れ場として、暗く演出されたり、通常のシーンとの切り替えがハッキリしていますが、イタリアの映像では(数本しか見てないので、全体の何%がそうであるとかは分かりません)、切り替えなく、自然にナチュラルに人の裸や、エロティシズムが登場します。
裸に関しての考え方が異なるのだと、痛感させられます。
恥ずかしいものでもなんでもなく、その人自身の魅力として捉えているのではないかと思います。
レッジョ・エミリアに行った際に、街で行われる子どものための祭りである、レッジョ・ナラがあったのですが、同じ時期に、博物館と美術館が一緒になっている場所があり、しかも、誰でも無料で入ることができます。その場所で、ナイトミュージアムがありました。
いつもとは異なり、くらい演出がされ、テーマが毎年(他のミュージアムも共同で行っているようです)異なるようで、今回はエロティシズムでした。
流石に、子どもの姿は見られませんでしたが、美学の中のひとつとして、このエロティシズムがあるようです。様々な表現で、このエロティシズムが、展示されていました。古代からだと、想像がつかないほど、直接的な表現なのかもしれませんが、このエロティシズムは、人間の欲求であり、美しいものであると、受け入れていないのは、日本に生まれて、固定概念があるからかもしれません。
受け入れれば、世界は広がると思います。
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