『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』(p.211)では、余命が分かったら、本当に人生を楽しむことができるか?ということについて、考察してくれている内容がありました。
ジョジョ(徐倫シリーズ)にも、記憶が残ったまま、人生をもう一度巻き戻して、生き直すというような内容があったと思うのですが、細部まで覚えていないので、合っているか不明ですが、同じ人生でも、覚悟を決めて生きることが幸せなのだということで、そんな世界が展開されましたが、その場合には、死ぬ日も分かっているということになります。
今回の「死」について考えるのは、余命が分かっている人生は、分かっていない人生よりも、楽しむことができるのか?ということです。
みなさんは、あと厳密にはどれだ時間が残っているか本当に知りたいだろうか?
私たちは先ほど想定していたような種類の痣(あざ)を持って生まれ、死ぬまでにあとどれだけ残っているかが常に正確に分かるとしよう。
もしその種の痣があったら、あと50年、49年、48年、47年……というように、残り時間を知っているという重荷を一生涯背負つずけることになる。
じつは多くの人が、それを重荷を感じるのではないかと思う。いつもそれが頭の片隅にあり、人生を楽しむことを妨げる。
いつもしれが頭の片隅にあるというのは、年齢が70歳くらいになって、病気になった場合や、自身と近しい年齢の芸能人が亡くなった場合などにも、死期を感じることがあるのではないかと思います。それが片隅にあると、人生を本当に楽しめないということが、現実的にもある話ではないだろうかと思います。
少し考えただけでも、周りの友達がいなくなってしまったりすると「また会おうね」とかの約束をしたのに、会えなくなってしまったなぁとか、それが、自身になると、「また来年も来ればいいよ」なんて、サラッとした会話が、心に刺さってしまうということはあると思います。
こちらの本では、このような内容になっていますが、個人的には、もう先が長くない場合であっても、いつ死ぬか分からない場合であっても、今を楽しむことはできると思います。
そして、人生を楽しもうと思わない人は、きっと楽しむことはできないとも思っています。
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