『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』では、誰でも読みやすく、著者の思考のペースで進められており、置いてけぼりになることはありません。見た目的には分厚いのですが、サクサク読むことができてしまいます。
様々な視点、考え方で「死」について述べられています。
その中で、快楽主義者の言い分として、考えられる人生についての価値観が載せられていました(p.176)。
「今後やって来る良い時間をすべて足して、そこから悪い時間をすべて足して、そこから悪い時間をすべて引いた答えが、プラスになるかマイナスになるか」を見れば良いというのだ。
快楽と全部足し、そこから痛みを全部差し引く。もし答えがプラスなら、今後の人生は生きる甲斐がある。プラスへの傾きが増し、その値が大きくなればなるほど、人生はますます生きる価値が高まる。
だが、もし答えがマイナスなら、将来は総じて快楽を痛みが凌ぐ。悲しいことに、その場合には死んだほうがマシだ。結局、死んでしまえば快楽も痛みもなくなるのだから。
数学的に言えば、おそらくそれはゼロで表すべきだろう。快感がないのだからプラスにはならないし、痛みがないのだからマイナスにもならず、ただのゼロになる。
快楽より痛みが多ければ、その時はゼロより悪い。それは生きるに値しない人生だ。これが快楽主義者の言い分だ。
快楽的に「死」について考えると、これからの人生が痛みばかりが、待ち構えているならば、死んだ方がマシだという、なんともシンプルな考え方であるので、分かりやすい限りです。
ここで予想されるのは、病気になってしまった場合、この先、痛みしか待っていないのであれば、苦しむ前に死にたいと思うのは、今でも考えられる状態ではないでしょうか。
または、ここでの痛みは、心の痛みも考えると、いじめられていたとしたら、この先も同じようにいじめられるという苦痛が続くのであれば、死にたいという気持ちになるのも頷ける。
要するに、自然に寿命ということで死に至る前に、自殺をするということは、快楽主義者の考えであるということなのかもしれません。
人生が、これからバラ色ということが分かっているのであれば、自殺する人はおそらくいないと思います。今が一番の幸せな時期だから、死にたいと考える人も中にはいるかもしれませんが、かなり稀なケースではないかと思われます。
自身の人生について、未来が分かっている人なんて、この世の中に存在しているのだろうか。これから、辛いことしかないということは、本当に確定していることなのだろうか。
病気であったとしても、治る可能性が0ではないことだってある。何か新しい新薬が開発されていたり、同じ病気になった人で、治った人が発見されることだってあるかもしれません。
いじめられていたとしても、いきなり転校生がやってきて、仲良くしてくれたことで、いつの間にかいじめがなくなっていたなんてことだってあるかもしれません。
色々考えてみると、現時点で人生の先を考えることは、計算を見誤っているのではないかとも思ってならないのです。
将来を設計することもご自身ですが、何が起こるかは、生きてみないと分からないということが個人的な結論です。
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