レッジョ・エミリアにあるクジラ型の保育園内部、アトリエを見て分かったことがあります。「nido guastallaの内部〜ガラスのキャンパス〜」の続きになります。
1歳〜2歳前半くらいの子どもが、丸いテーブルの上に、クリアフィルムの上に絵の具を重ねている。
自分が保育園にいた時には、そんなに気にしていなかったのだが、パレットで絵の具を並べていくのと、こうやって1色ずつ色を分けて並べるのと、同じ絵の具でも、見え方が変わってくる。
同じ絵の具とは思えないかもしれない。見え方が変わると、その見え方の違いに出会うことで、そのインスピレーションがダイレクトに、表現・アウトプットに出てくるのではないかと思った。
パレット上で絵の具を出した場合と、1色ずつたっぷりの量を瓶の中に出した場合、作品にどのように影響するのかを見てみたいものだと思ってしまいました。
もうお昼前だったので、既に活動を終え、手を洗っている様子です。
1つの活動に対して、5人くらいの少人数で行うということは、大人数だと人に意識が行きすぎてしまいますが、少なすぎると、不安になってしまうこともあり、結局活動に集中することができない場合があります。3人〜5人までの人数が、刺激し合える、活動に集中するには最適の人数ではないかと、個人的には思っています。
私が言いたいことは、何をしたいかによって、人数の調整をすることは重要なことだと思います。人数によって、その影響を受け、それがアウトプット(表現)されるからです。
もうひとつ言えるのは、一緒にいる大人でさえ影響すると思います。
影響を与えるのは、人間だけではありません。
ここは、絵の具ができる場所としてセッティングされているアトリエですが、広い場所ではありません。
少し思うのは、このテーブルに、この椅子の高さだと、おそらく、座りながら活動するのは、テーブルの高さが高すぎて、描かれたものを確認しながら、描くことができない。そうすると、自分が今何をしているのかというのが分からなくなってしまって、面白くなく、集中できないのではないかと思ってしまった。
だから、この上の写真の子は、立ってやっているのではないかと思った。
広い場所ではないということについてだが、もし、このアトリエが、広い場所だったら、使用できるモノや、キャンパスの大きさが違ってくるので、表現として出てくるモノだって変わってくるはずだ。
ただ、大きすぎると、逆に集中することができないということになるので、アトリエは広くして、集中できるように仕切りを設けることが、一番いいかもしれないと思ってしまいました。
アトリエとは、作品が生まれるところという定義をしていますが、それならば、すべての場所がアトリエになる。現に、保育室にも下のような環境が用意されています。
だが、保育室も、アトリエとして、紙と道具が置いてあるが、そうではない活動も一緒の空間で行うので、長い時間集中したい時には向いていない。だから、アトリエという名前の部屋があるのは、長い時間、その活動に集中したい時のための部屋という定義が一番正しい表現ではないかと思う。
アトリエに入って正面には、道具と活動の様子が並んでいます。保育園によってセンスが異なるので、それを比べるのも面白みがあります。
どうやって並べるかによっても、インプットされる情報が異なるので、セッティングをした人のセンスが問われる。自分が美しいと思う環境すればいいと思うので、定期的に、セッティングする人を変えるというのも面白いかもしれない。
描かれた作品が、ここに並べられている。
キャンパスが白であるという固定概念をなくすことで、全ての色を表現することができる。頭に浮かんだ色をそのまま表現できるのはストレスフルなことではないだろうか。
引かれたレールの上を走ることが、一番の個人を潰してしまう環境ではないかと改めて思う。
イタリアは、散らかっていることは、美しくないという習慣がある。
だから家も片付いている。ということは保育園も片付いている。
美しい環境でないと、美しいモノは生まれない。
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