『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』の著者ハンス・ロスリング/オーラ・ロスリングらは、世界を知るには数字で見えてくるものがあるが、数字だけが全てではないと述べている。
仮説を検証するためにデータは必要だが、仮説をどこからひらめくかというと、人と話したり、話を聞いたりすることからだ。
世界を理解するのに数字は欠かせないけれど、数字いじりだけで引き出された結論は疑ってかかった方がいい(247ページ)。
この話の内容は、もっとだが、おそらくここで言いたいのは、この数字で出た内容が、本当に正しいデータなのかを確かめるのは、データは測れないということであると思います。
論文で何かを証明するためには、データが必要になり、その導き出され方が重要になりますが、世の中から出される情報が、本当に真実なのかは、疑った方がいいということも言える。
何もエビデンスもなく出されるデータに関しては、すぐに疑うことができるので簡単なことではないかと思います。
人類の進歩の中でもいちばん価値のある大切なものは、もちろん数字だけでは測れない。
(中略)
経済発展の最終的な目的は個人の自由だし、それはなかなか数字で表せない。人類の進歩を数字で表すという考え方そのものが変だと感じる人も多い。わたしもそう思う。この世の人生のすべての機微を数字に表すことなんて絶対にできない(248ページ)。
それぞれの意見や、考え方、表現の仕方などで、人の想いが出てくる。それを数字にすることなんて、確かにできない。
メディアでは、中国人はヒドい報道のされ方をしているが、実際に中国に行った人は、そんなにヒドいと思った中国人はいないと感じている人もいる。
報道は報道だが、真実は、自分の目で見なければ分からないことであると、個人的にも思う。
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こんばんは!初めてコメントします。報道も国が発表する数字も信用できません。それでも、世間は数字を大事にしたがる風潮が消えません。その弊害は大きいと思います。
いつも「いいね」をしていただき、ありがとうございます。コメントいただいたのに、返事が遅くなりました。何かをする場合、現状の調査をすると思いますが、その数字の根拠は?と企業では行うのに、国単位だとそれをしないで、国だからと信じてしまっているのかな?とも思います。その数字の出し方についても、論文と同じように、こういった方法で行っているということまで追わないと、信憑性があるかどうか判断してはいけないなと思っています。
どこが問題なのかを考えると、いろんなものが複雑に絡まっているので、一箇所を直せば解決するという状態ではないのだと思います。そして、あまりにも大きな問題すぎて、個人の力では解くこともできないとも思いますし、真実が分かったところで、どうすればいいのか解決策が見つかる保証はありません。ですが、「声を上げること」ということだけでも、意味のある行為ではないかと思っています。何か行動をするときには、信憑性のあるものかどうかを、自身で調べるというのは、これからの教育に求められる力ではないかとも思っています(自分で、自分の答えを見つける力)。長くなってしまいましたが、wildsumさまのページにも今度お邪魔したいと思います。暑い日が続きますが、熱中症などにはお気をつけてください。改めて、コメントいただき、ありがとうございました。