「類は友を呼ぶのではなく、つるんでいると類になる」の続きになりますが、ポール・エクマン氏が述べることで、みなさまにも教えたいことがまだございますので、また、引用形式で紹介いたします。
信頼関係の中で育った子どもは、嘘が信頼関係を損なうことを理解できるが、信頼関係のない家庭で育った子どもは、信頼の喪失を嘘の結果と見なすことに困難を覚えるかもしれない。
とりわけ、厳しい罰によって育てられている場合、罰を避けるために嘘をつくのは仕方がないことだと思うに違いない。
そのような子どもたちは高い倫理的な発達レベルに達することができないだろう。(214ページ)
これを聞いて、うちは大丈夫と思った家庭もいるのではないだろうか。
ドラマなどを見ていると、第三者的に見ることができるので、子どもにとっては悪影響であると言うことが、何も言わなくてもわかるのだが、いざ、自分になると、分からないものである。
近しい存在の家族が、指摘してくれたら、それは幸せなことである。この指摘をしてもらうのも、信頼関係、愛がなければできないということが悲しいかな現実であります。
要するに、まともに育った子と言うのは、しっかりと指摘を受けてきたということではないか?ということも、言えるのではないかと思ってしまう。
指摘ではなく、一方的な罰となってしまうと、嘘をつくのかもしれない。
子どもにとって罰となると、納得した上で受け入れている場合は、反省するのですが、納得をしていないと、ただの苦痛でしかないので、嘘をついて逃れる術を使って、自分の身を守るというのは、仕方がないというのは、納得がいきます。
仕方がないという状況は、なんとしてでも、避けたいとこではあります。
嘘をつくということは、自分を偽っているということになるので、人格すらも影響が出てきてしまうと思うと、早々になんとかしないといけないのではないかと思ってしまいます。
そうならないためにも、まずは、親自身が周りの人との人間関係を築かないといけないという、結論に、個人的には達しました。
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