問題は、子どもの性行動に対する親のさまざまな態度の中で、正しく、何が間違っているかということではない。多元的な文化においては、子どもが携わる性その他の行動について、常に様々な見方が存在する。
重要なのは、「知る必要がある」ことや、何を子どもの人生のプライベートな部分として認めるかをよく考えて決めることである。
もしそれがお互いに合意したプライベートな部分なら、子どもは親が黙って寝室のドアに鍵をかけるように、沈黙を守るか、「それは僕のプライベートなことだよ」と言う権利を持っている。
ほとんどの親は、残念なことに、日々の雑事に追いまくられ、危機の連続の中で暮らしている。かれらは「知る必要がある」ものが何かをじっくり考えている暇がない。
その問題を子どもと話し合うと言うようなこともめったにない。
子どもは「これはわたしのプライベートな問題だ」と言うより、嘘をつくことを余儀無くされているように感じる。そのように言う選択もあるのだと言うことにも気付かないのだ。
「ポール・エクマンの助言・続」からの続きになりますが、いくら個人のプライベートだからと言って、なんでも尊重していいわけではない。
子どもの行動の中には、やってはいけないこともある。その行動については、誰が把握しなければならないかと言ったら、親(近くの大人)である。
やってはいけないことを見守るために、お子様の行動を把握するのに、自身が聞く姿勢を整えていなければ子どもと向き合うことができない。
子どもの行動で把握していなければならのは、どんな友達と一緒にいるのか、放課後の居場所、夜遊びの行動、見ているTV、動画、宿題をやっているかどうか、学校での振る舞い。
年齢が高い子に対しては、仲間との性行動、ドラックの使用(海外ならではですが、今後の日本でも可能性はゼロではありません)、アルコールの摂取、他人とのドライブ、車を運転している時の行動を、ポール・エクマン氏は、知る必要がある項目としてあげている。
子どもには、この項目は、親として知っておく必要があるということで、あらかじめ伝えておき、どうして伝えなければならないのかと言うことも説明しておけばいいのではないかと述べている。項目の中で、プライバシーに当たることは聞かないことが、子どもを尊重することにつながる。
親としては、子どもに対して、あれもこれも言ってしまうのは、子どものためにはならないのだが、何もしないと言うのはただの放置になり、それは、親としての役目を果たしていないことになる。
子どもの行動も把握していないと言うのは、子どものためにもならない。
同じ性格の子どもは存在しないので、全て同じようにとはいかない。だから、子どもと向き合う余裕と時間が必要になる。
時間や余裕がないと、子どもの話を思い込みで、決めつけてしまったり、最後まで話を聞くことができなかったりする。それだけで、子どもは、「どうせ言っても仕方がない」「思い通りにはならない」「結局従わなければならない」となり、嘘をついてしまう羽目になる。
嘘をつく時には、理由がある。自分を守るための行動でもあるので、子ども自身が傷ついてしまうと言うことにもなる。嘘をつかせないような環境を用意することのも、親の役目ではないかと思う。
嘘をつくと言うことが、どう言うことなのか、それも子どもにとっては、学ばなければならないことであるので、その大切なタイミングの時に、親が近くに居なければならない。
子どもを育てるということは、そう言うことなのかもしれない。
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