詩人のウィリアム・クーパー氏は、詩の中に、馬が猛烈に駆け出して、つかまえようとする町の人々が必死に追いかけている姿や、飼いウサギを追いかけた話などを、詳しく書いている手紙などを残しているそうです。
犬、馬、人が、一体となって野原を流れるように移動をし、獲物を追うというスリルには、アドレナリンが放出され、解放されているかのような感覚になり、この快感は、人間の本能なのではないかと、思わざるおえない。
追いかけるモノが、生きているモノの方が、より、面白みも増して、本能的なものを感じるのかもしれませんが、子どもが、興奮をした時には、部屋の狭い中であっても、走り出す光景を見たことがないだろうか。
イギリスの中世では、富裕層の遊びは、生きている動物を狩るというのが、遊びとして確立されていたそうです。
『イギリス人はどう遊んできたか「遊び」の社会史―娯楽に見る貧富の格差』の中では、イギリスの王様は、狩りをした時の感想が書かれていました。
その日の快感は、時間が自分の思いどおりに使え、自由を楽しめたことであった。
嘆願者は皆無、相次いだ会議の後の新鮮な空気、危険を伴うことの緊張感、弓を射る技、猟犬の働き、そして狩猟が終わった時の心地良い疲れ。
それらが、快感の中身であったそうです。
貧民層の中では、生きている動物を狩ることができなかったそうで、ボールを動物に見立てて、追い回すというフットボールを楽しんでいたのだそうです。
そのフットボールが、世界中で、賞金が出るほどの遊びになっていると思うと、世界は貧民層で成り立っているのかと思うと、考えさせられるものがあります。
現在では、動物狩りは法的に制限がされていると思うので、今では、富裕層は、何を追いかけているのでしょうか。考えたくないです。