写真:江古田商店街の朝
著書『少年法・少年犯罪をどう見たらいいのか―「改正」、厳罰化は犯罪を抑止しない』では、弁護士の証言が書かれています。
依頼人の情報は極秘となっていますが、名前を出さずに、紹介してくれています。
弁護士が、付添人として出会う非行少年の多くは、重大な犯罪(恐喝、強盗、障害、殺陣、覚醒剤など)の場合であり、みんながみんな、同じ環境ではないし、性格も異なる。
だが、少年と一緒に付き添っているうちに、共通して見えてくるものがあったそうです。
その少年たちの根っこのところには、人を信じることができず、自分自身も信じられず、大事に思えないという共通点があると、感じられたそうです。
こんな風になってしまったのは、何故なのかと考えると、
愛して欲しかったのに、愛してもらえなかった。
かまって欲しかったのに、かまってくれなかった。
助けて欲しかったのに、見捨てられた。
抱きしめて欲しかったのに、殴られた。
認めて欲しかったのに、侮辱された。
自分を見て欲しかったのに、差別された。
遊びたかったのに、勉強を強いられてしまった。
仲間が欲しかったのに、孤立させられた。
などなど、こんな風に思ってしまうということは、理由があります。
ワケも聞いてくれないという状態であったり、本人の一部始終を知らない状態で、決めつけてしまっていることが多くあるということです。
大人同士でもあります。全てを知っているワケでもないのに、決めつけてくるという人が、世の中には多く存在します。
その行為が、人を傷つけているということ知ったら、止めてくれるのでしょうか。
これを、子どもに向けたらのなら、ずっと傷ついた状態となってしまうのです。
これを、信じていた人からされたら、心が不安に襲われてしまうのは、容易に想像ができるのではないでしょうか。
このストレスを受けた状態がたまると、怒りに変わってしまい、不満、そして、不安になります。この気持ちを発散することもできないのです。
健全に、生きていくために大切な、自分を大切に思い、人を信頼するという喜びが育たないまま、成長していくことになります。
自分という、存在を、自分自身で否定してしまうという状態は、気持ちが不安定になり、そんな状態では、誰も、耐え続けることができません。
この状態が続くと、心の病気になってしまったり、引きこもりになってしまったり、自傷行為に走ってしまうことだってあります、最悪の状態は、自殺と、殺人という悲劇が起きてしまうのです。
この殺人をいう行為(または、非行)は、自分自身が存在しているという証明をしたい、人でありたいという気持ちの表現なのであるということです。
助けを求めているのであり、大人たちに成長を阻止されたことへの復讐でもあると考えられると述べています。
著者は、非行に走ってしまう少年たちは、ひとりの人間として受け止めてもらうことができず、尊重すらしてくれなかったからであるとしています。
少年犯罪は、長い年月に渡る人権侵害の蓄積の結果というワケであると述べています。
非行少年、大人の犯罪に直面したら、不幸であると受け止めるか、社会(全国民)の責任であると受け止め、今からでも、彼らの気持ちを受け止めることができれば、この蓄積を少しずつでも、解消していけるかもしれません。
同じような環境にいたとしても、犯罪に走らないですんだ少年たちの方が、人口的には多く存在しています。その少年たちには、どこかで救いがあったということになります。
気持ちを受け止めてくれる友だちができた。
理解してくれる先生がいる。
このような、人に出会えなかった少年たちは、こうしている間にも、傷に耐えることができず、悲鳴をあげているのだと思うと、助けてあげたいが、ひとりの人間ができる力は、限度があります。
たくさんの人を救うことよりも、もっと、身近にいる、周りの人に、優しくすることで、この傷が、癒ると思うのです。余裕がないときは、仕方がありませんが、人に優しくすることで、自分自身の気持ちも、満たされていくので、家族みんなで支え合うことで、世界が平和になる一番の近道であると、思っています。
註:『少年法・少年犯罪をどう見たらいいのか―「改正」、厳罰化は犯罪を抑止しない』石井 小夜子,平湯 真人,坪井 節子 明石書店 2000-10