このタイトルは、語弊が生まれてしまいますが、実際に、このような立場を考えている方々がいらっしゃいます。
その言い分は、以下の通りです。
犯罪が全く存在しない社会状態は、異常で、病理的である(19世紀の社会学者デュルム)と言われ、こんな社会の状態は、道徳意識の拘束が強くなっており、これに対して、反対する者が誰も存在しない、そんな社会であるとされている。
そして、社会が前進するには、犯罪の一種である行動が起こらなければ、変わることができないとされる観点からも、社会が発展していくことができないと、歴史的な観点から見ても、指摘されています。
これを許してしまえば、犯罪が起きることは、実は社会にとっては、プラスなことなのか?
これだけを見てしまうと、そう思ってしまうかもしれませんが、本当にそうなのだろうか?
どこかのドラマでもあるように、大義の為には、犠牲が必要と言うことが言いたいのだろうか?
個人的には、こんな発想をする人は、被害者の気持ちを何も考えず、そして、家族も大切にできないような人ではないかと、思ってしまってなりません。
あくまでも、これは、個人的な意見なので、良いとか、悪いとか、そういうことが言いたいのではありません。
社会が発展するということは、一体どう言うことなのか?
皆が平等に暮らせる環境にするにはどうしたらいいのか?
理想とは、人によって違うのではないか?
日本は、幸せな国なのだろうか?
この課題は、いつの時代も付き纏い、答えが出ないままなのではないかと、思っている。
この答えを見つけるのは、国民一人一人であり、国を変えるのは、国民であり、もう、政治家に任せている場合ではないのではとも、思ってしまっている。
国が変わる時には、歴史的に見て、犯罪なく事が済んで欲しいと思っている。
歴史は繰り返すのですが、この歴史だけは、頼むから、変わって欲しいと願う。
註
『犯罪学への招待』守山 正,西村 春夫 日本評論社 1999-05
環境犯罪学とは? 別名「場所の犯罪学」「地域の犯罪学」「環境デザインの犯罪学」「状況的犯罪予防論」などとも呼ばれており、被害が広がる恐れのある、地理学的な場所、あるいは犯罪発生の危険の高い建物の建築学的な環境を強調する犯罪予防論の一分野とされています。