幼児教育関係のレッジョ・チルドレンで、イタリアに出会うきっかけになりましたが、その内容を見ても伝わってくる概念がありました。
以前の記事にも書かせていただいているのですが、イタリアは国民性というよりも、市民性が強いということです。
この疑問に対して、この『イタリア現代思想への招待 (講談社選書メチエ)』に少しヒントが書かれていたので、個人的には、かなりテンションが上がったので、紹介とともに、共有させていただきます。
”イタリア語の「身体」とは、精神に対立するが最終的には精神へと昇華されていくような何ものかでは、まったくないのだ。それゆえ、この身体は、超越的なものへと向けられているわけではない。このことはまた、「市民、国家、共同体」などの意味を持つラテン語の「キウィタース」とも関連している。この語は、ギリシャ語「ポリス」に対応するラテン語だが、その内容はかなり変化している。
(中略)「ポリス」は本質的に、その構成員である個人を超えて、あるいは個人に先んじて存在するが、それに対して「キウィタース」は、その構成員、すなわち「市民(キウィス)」なしには存在しえないからである。
(中略)この対象はまた、ギリシアのポリスが土着性と重んじたのにたいして、ローマのキウィタースは、故郷やアイデンティティを持たない、いわば亡命者たちから成り立っていたという点にも、よくあらわれているだろう。
(中略)土着の神話はこのように起源、家族、市民、ポリスと密接に結びつく。(中略)ローマは、一説に、滅亡した祖国トロイアを逃れたアイネイアスが、長い放浪生活の末にその基礎を築いたとされる。それゆえローマの「キウィス」は、民族であれ宗教であれ、いかなる同一性や、純粋性にも還元されることはないのである。” p.175
ここから分かることは、もしかしたら、イタリアには、国民性(=市民性ということなのか?)という概念がないのかもしれないということです。
何かの単位、集団で人々を表す言葉に、市民が一般的なのかもしれないとも思ってしまいました。国民性として、イタリア人は~というのは、イタリア人自らの話の中で聞いたことはありますが、これが正しいかどうかは、定かではありません、あくまでも、推測です。
分かりやすいように、ギリシアと比べてくれているが、イタリアの市民というのは、故郷、アイデンティティを持っている存在であるということ、それと、どんな民族でも、宗教なども関係ないという考えが含まれているということが分かる。
また、その地域性によって、考え方があるかもしれないが、ローマでは、その人それぞれの存在意義に、差別がないということも表していると見てとれる。他の地域でも、これと同じような考えが存在しているのか、それとも違うのか、それぞれの地域で、市民の意味は、どうなのかが分かれば、少しは答えにたどり着けるかもしれません。
ここだけの情報で、この個人的な考察が合っているかは、他の文献を見てみないと、なんとも言えません。また、この市民に触れることがあれば、比較をしてご紹介できればと思います。
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