弱さを自覚することが真の強さ

イタリア現代思想への招待 (講談社選書メチエ)』では、神についての考え方が述べられています。無宗教である私には、神という絶対的な存在が、一体どういったものなのか、このような書物から探るしかありません。

キリスト教については、まったくの無知に近いので、とても興味深い内容を紹介します。

 

”神に起源をもつ自由は、悪を世にもたらし、悪とともに「苦痛」をもたらす。悪の力は大きい、だが、苦痛の力はもっと大きいだろう。パレイゾンによれば、苦痛は、「神のケノーシス」と人間の時間性(歴史)とが出会う場なのである。それゆえ、悪の否定性が克服されるとしたら、それは、苦痛の否定性によってしかありえない。悪を克服する唯一の希望は、苦痛に委ねられるだろう。

したがって、きわめて逆説的なことではあるが、神において「不能の力こそが、全能であることにほかならない」という言い方も可能となる。なぜなら、悪の否定性を克服する道が苦痛であるということになるからである。この思想家において、神の力は、その絶対的な全能性においてではなく、その二重の否定性において思考されているのである。ちなみにこの逆説は、彼の弟子であるヴァッティモの「弱い思考」という信念、すなわち、「弱さの自覚こそが真に強いということである」という逆説ともまた相通じるところがあるように、わたしには思われる。” p.135

 

この最後の意見は、著者の意見となっています。

この話の前提としては、神(キリスト教)から見捨てられてしまったということについて(使徒パウロが、神性放棄(ケノーシス)の名で呼ばれている観念)、どうして見捨てられてしまったのか?と考えたとき、

”現実化されない可能性として神のうちに保持されていた悪は、神がその神性を放棄したとき、キリストの受難として、人間にもたらされたのである。”

この現実化されない可能性というのは、悪(否定性)のことを示しており、つねに、神のうちに存在していると述べている。

つまりは、ユダヤ=キリスト教における神は、みずからの内に否定性と悪を抱え込んでいるということが言えると考えられています。

この考えが反映されているのは、キリストの受難とされています。

受難とは、キリストが十字架に架けられてしまったことを示しています。

この文章からすると、キリストの十字架というのは、矛盾、不信、葛藤の犠牲、見せしめ?のようなものであったという解釈に、自分自身は至っている。

キリスト教のことを詳しく知らない状態で、イタリアにも行ってしまったが、今までは、イエスが、十字架に架けられて、何かの犠牲、代償をはらって、神になった?と思っていました。このなんとなく思っていたこの犠牲の部分が、この否定性、悪であるということは、分かっていませんでした。キリスト教にも、カトリックと、クリスチャンと分かれていると聞きましたが、その思想の違いも、知る必要があると思ってしまいました。ここでは、話が逸れるので、これ以上は伏せます。

冒頭の自由は、悪を世にもたらし、悪とともに苦痛をもたらすとされ、この悪を克服されるということは、この苦痛を克服しなければならないということになる。人類は、さらなる進化をするために、肉体のない新人類という方向に進んでいる。苦痛というのは、精神を抜きにすると、肉体からの苦痛からは解放される。要するに、神の矛盾を克服しようとしているのかもしれない。

精神の苦痛の解放は、AIのようになるのではと察しています。神が求めている理想の形は、AIだったということで、苦痛を感じてしまう肉体、悩みが生じて病んでしまう精神を持っている人間は不要な時代が来てしまうかもしれません。

命令に従うだけというのは、苦痛ではなくなるのではないだろうか。人間は、悩むことが、苦痛であったりもする。選択をすることで後悔が生まれることだってある。それを排除してしまうと、もう人間ではなくなるのではないかと思うと、人間は、苦痛を感じてこそ、自由になれるのではとも個人的には思う。

これから、どんな未来が待っているのかは、神のみぞ知るってやつですかね。

この神の中にも、悪があり、それ故、苦痛が存在している。それを神が自覚するために可視化したものが、キリストの十字架であるという解釈になるだろうか。合っているかどうか、この本しか読んでいないので不明ですが、思っているよりも、神という存在は、奥が深いということは、確かに分かりました。

 

※パレイゾン(イタリアの哲学者,美学者。トリノ大学で A.グッゾに学び,のち同大学教授。 コトバンクより)

※使徒パウロ(キリスト教史上最大の使徒。聖人。コトバンクより)

※使徒(共観福音書では 12人の弟子が使徒とされており,キリストは彼らに悪霊を制する権威を授け,宣教に派遣した。また彼らはキリストとともにある者ともされている。一般にはこの 12使徒にパウロを加えた人々が使徒と呼ばれる。コトバンクより)

 

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作成者: Tangoo

どうして人は罪を犯してしまうのか、その原因を知るために、本を読んだり、旅に出て、見たり聞いたり、人に合ったりしています。そこで、学んだこと、知ったことをブログにしています。

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