何かを見て、感じて。それを、表現することで、その人が思っていることが、具現化されます。その具現化された作品を、誰かが見て、また何かを感じます。
その感じ方は、作者と一緒かもしれませんし、違うかもしれません。
こちらの粘土たちは、以前(日常風景こそが、平和な世界を象徴している)にも紹介しましたが、実は、エピソードがありました。
“走る小さな女の子
この子はとても速く走っているので、心臓が鼓動しているように感じます。
ファビオラ” (google翻訳)
作った人が、ファビオラなのか分かりませんが、心臓の位置にハートマークが書かれていること、大股でいること、そして、髪の毛が乱れているところから、ファビオラは、そう感じたのかもしれません。
”花と女の子
私たちは彼女に、髪の毛の花を作り、
スカートの中、そして、手にも花を持っています。
アリス、フランチェスコ”
見たままを述べる。それは、事実であり、見たことを言語化することで、それだけで、周りの人と、共感をすることができると、個人的には思っています。
”バイクの女の子
もしあなたが、波の道を進むのであれば、自転車は、車輪と波を打つことができます…私は波の形をしたスカートを作りました。
グレタ”
自転車に乗っている、あのスピード感が、まるで波に乗っているような、波を打っているような感覚にさせるということでしょうか。その波を表現するのに、スカートにもそれを反映させているというユニークな作品ですね。
”女の子の読書
この女の子は好きな本を読んでいます。新聞です。
シモン、レオナルド、アリス”(google翻訳)
新聞だって、立派な書物であり、それが好きな子。髪型が個性的で、彼女の周りには何か、ぬいぐるみなのか、猫なのか分かりませんが、賑やかなのも、彼女の個性を伺うことができます。
これは、最初に見るべきモノかもしれませんが、あえて最後に持ってきました。
”私たちが見るもの
ここに示されているのは、未分化の群衆ではありません。それぞれの粘土小像は、他のアイデンティティとの関係で特定のアイデンティティを持つ人です。
小さな女の子や子どもたちの目は、レッジョ・エミリアの住人が写っている鏡の断片になります。” 翻訳google
この粘土で作られた人間たちは、はじめにどんな導入で作られたのかは、分かりませんが、おそらく、自由に作ろうという感じではないのだと思われます。
レッジョ・エミリアの住人というのが、テーマであったのだと、ここから伺えます。
「何もテーマを与えずに、自由に作品を作っていい」というのも、素敵ですが、何人もの人間が、同じテーマを与えられ、それについて考えるというのは、情報を共有したり、共感したり、広げられる機会にもなるのではないかと思います。
そして、何かを見た、体験した物事であると、イメージをして、それを形にするということができます。
それが、身近であれば、あるほど、他の人と共感しやすくなるのではないかと思います。
日本では、例えば、芋掘りに行った時の思い出を、絵にしてみようというテーマがあり、実際に体験をしたことなので、思い出しながら、印象になったモノを描いて行きます。
家族や、他の学年、先生たちは、それを見て、芋掘りをした状況であったり、思い出を感じ取り、擬似体験のようなことができるかもしれません。
テーマにする内容が重要であり、この、身近な存在である住民というのは、街の人たちも見て、様々なことを感じることができ、毎日のことなので、子どもたちが、普段何を見ているのかということも分かったりします。
この作品を見た大人も、身近で、毎日の光景が映し出されていると思うと、ワクワクしてしまうことではないでしょうか。
テーマを何にするのか、それを練るのは、1人の先生ではなく、しっかりと話し合った内容であるべきではないかと、個人的には思います。
なぜ、そのテーマなのか、そこにユニークさがあるのか、子どもたちには、どんな影響があるのか、何を感じて欲しいのか、この先はどうするのか、それには、どうすればいいのか、などなど、考えなければならないことは、たくさんあります。
1人で決めてしまうと、偏っていること、意味があまり考えられていない状態で、気がつかないまま、子どもたちの貴重な学びの時間を奪うことになってしまいます。
ひとつひとつのことに、意味があり、大人の都合ではなく、子どもたちのことを考えた内容で、何もかもが構成されていて欲しいと、切に願ってしまいます。